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毎日書いている日記の一部を公開している。

(読書メモ) だれのための仕事 労働vs余暇を超えて - 鷲田清一

 

・しないでいいならそのほうがいいという労働が、そうでは済まないからこそ、進んで行いうるようなモチベーションが編み出されねばならなかった。


・労働が苦労であり自己実現にならなくなったからこそ、非労働のうちでこそ「労働の純粋な形式」が輝くというパラドクシカルな現象。労働が苦役となって意義が失われ、遊びは労働の合間の余暇に成り下がってしまった。


・成績主義、業績主義、効率主義の強迫観念。計画通り進むことが最も効率的だという考えができ、現在行っていることの全ては目的実現のために必要なものとして位置づけられ、遊びが排除される。


・生産という鏡が、未来との関係性で現在の行動を決定しようという前のめりな生活、ワーカホリックと呼ばれる仕事中毒、遊びまで無駄なく効率的にやろうとする生産性の論理、快楽マシンとしての人々の欲望の構造に、典型的な形で現れ出ている。

 

・貪欲は悪いとされず、浪費がだめとされる近代の労働社会。消費にさえ意味を求める。

 

もっと愉しいことをしなければ、と快楽までが義務のようになってくる。

 

単純な反復労働の組み合わせは、生産工程としては合理的だが、労働の本来の目的という意味ではむしろ効率が低下している。


・意識を過剰に持つことなく自動的に機能する集団を形成できるよう、学校などは近代的な社会訓練の場として設置されていった。

 

快楽マシン。


・団体行動、団体スポーツにおいては、自己の欲求を実現することがそのまま自己の消失を意味するほど、徹底したメカニズムが貫徹している。仕事として励み組織立てることのように見え、快の享受がもう快を通り越している。

 

インダストリーという観念による縛りから自分を緩めようという、人々の志向それ自体を企業が先回りしてビジネス化しようとするから、人々はますます真空恐怖に陥っていく。インダストリーは飽和こそしているが、インダストリアスな心性は根深い。

 

生産という鏡は私たちの自己理解の構造の中に組み込まれてしまっている。生産性の論理によって規定される価値に基づく考え方が根づいてしまっている。

 

現在の社会では、欲望そのものの産出が企てられている。欲望への欲望。停滞してはならないためだ。

 

健康を損なうのは自己管理の努力が足りないからだという論理が強迫観念のように人々の頭にとりつくようになった。健康モラリストによる、最も不健康な社会的な下層民への偏見と差別の助長。

 

リースマンの、「何のための豊かさ」。


・自由時間という言葉には、労働時間は拘束時間であるという意識が張りついている。


・仕事とともに、遊びも貧しくなっていった。


・仕事と遊びが二極化し対立関係となるにつれ、遊びから真面目さが失われ、遊びはふざけの代名詞のようになった。非強制的という労働の反対価値だけではなく、非生産的、虚構的という意味まで背負わされるようになってしまったが、遊びは果たして気を抜いたものなのだろうか。


・手応えという言葉がある。遊びも、やってもやらなくてもよいものでは退屈する。真剣さを求めている。


・余暇という大きな枠組みが作られたことで、昼寝や飲食からスポーツや藝術までが、同じ種類の活動として一括りにされた。スポーツは健康を害さない程度の程よい楽しみに変質し、藝術の活動もまた人生の適当な時間におさまる程度の安楽な活動に薄められる。


・ディーププレイ。深い遊び。火遊び。闘鶏。アイデンティティの源泉。自らの存在の根拠を賭ける。


・出現と消失、緊張と弛緩の揺れ。遊びの根源的な心地よさ。


・遊びという間。遊びの空間。ずれや隙間がとてもポジティブな意味を持っている関係。


・緩衝地帯としての身体。緊張しすぎてもいないし弛緩しすぎてもいない身体でないと、危険。完璧なコントロールが及ばない、存在の外にあって一定の弛みのある身体こそ、生存を痙攣や摩滅から遠ざけている。


・遊びという間を欠いた仕事こそが、労苦としての近代労働。同じことをやっていても、労働にもなれば楽しみにもなる。手応えや真剣さは仕事と遊びどちらにも要求され、内容的に区別されるものではない。遊びは必ずしも快楽主義的であるわけでない。


・緊張と弛緩といった存在の開閉という運動が遊びの快感を形作っている以上、何らかの意味で存在を揺さぶる可能性のない仕事など、およそ生きがいとはなりえない。


・同じ行為がどういうきっかけで愉しみになりどういうきっかけで労苦になるのか、転回軸を見定める必要がある。


・すすんでやりたくなるような行為。苦ではない程度では意味がない。


・労働がくそまじめなものとなり余暇が快感一色のものとなる、あるいはそうあるべく望まれる、そういう形で両極化されるとき、どちらからもときめきがなくなる。


・テレオロジカル、目的論的に仕事が規定されることまでは異論はないが、そのための行動がすべて目的と手段の連鎖の中に閉じ込められていることとは意味が異なる。


・例えばなぜ受験勉強をするのか、という問いの連鎖から最終的にたどり着くのは、幸福を求めるためであり、人が幸福を欲するものだという事実をそれ以上遡れない前提として認めるしかなくなる。


・労働過程が目的と手段の連鎖として設定されているところでは、目的はいったん実現されれば目的であることをやめ、次の目的の手段となる。


・テレオロジカルな視点というのは目的が労働過程の全体をもっぱら一義的に規定されることで、行動としての労働過程は常に手段としてみなされ、それ自体としては意味を持たないこととなる。労働の空疎化とはまさにこのことをいう。労働が他の目的のためになされるものとなり、その意味が自己完結してないがために、充実感をもたらすものとなりえないのだ。


・達成されようとされまいと、発見されようとされまいと、関係なく存立しうるような意味というもの、それが労働の中に現前しているような状態とはどういうものか。


・ほどほどにスポーツや藝術を嗜むのは、明日の労働という目的のためであり、曖昧きわまるあの人生全体の目的のためなのだろうが、それを顧慮するのが目的至上主義の変形に過ぎないことはいうまでもない。


・よろこびが私的なものからしか得られないという偏見からも逃れなければならない。


・家事。


・ボランティア。特定の誰かに特定の誰かとして、全身体的は活動で関わるものが多い。匿名的でなく、交換可能でないと感じられるもの。遊びの持つ自由な関わりと、社会的連関性とが適度に混ざっているから、充実感と結びつきやすい。


・自分らしさやオリジナリティは大抵の人にはないから、それを一度考えた結果、ないとわかったのち、誰にとって自己がかけがえのない人でありうるかを考えることとなる。


・自己は他者の他者として初めて確認されるという考え方。特定の誰かにとって意味のある他者になりえているかどうか。姑の世話をせずボランティアに行くのも、姑の世話はやって当たり前であるからだ。


・他者との関係ではなく自分の内部に自分を規定しようとするとき、物を多く所有していることが存在確証となる。


・レインやキェルケゴールアイデンティティについて定義する中に、他者からの見られ方が含まれる。自己の中と他者からの見られ方との交錯のうえにアイデンティティはある。


・時間を貫いて同じものであり続ける面と、可塑的であり別の可能性へ開かれているという意味でゆるみがあること、この意味で柔らかい同一性がアイデンティティの形であり、一つの意味に覆いつくされていないことが重要だが、インダストリーの社会では前者の面ばかりが重要視される。


・ひとりひとりに自分のやり方があるということが自信を持って確認できれば、おそらくそれが一番いい。


アイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリーである。しかし、たえず組み換えの用意ができていなければならない。(他者が関係し入れ替わりもするから)


・他者との関係のなかで編まれていく私のストーリーが、仕事のよろこびに欠かすことのない達成感を裏打ちしているのであるし、それ自体において楽しいものという感情を育みもするのである。


・この仕事を行うこと、そのこと自体が楽しいという、仕事の内的な満足は、未来の目的とではなく、現在の他者との関係と編み合わされている。自分勝手な意味づけではない。手応えを与えてくれるのは、自分は誰であるかということの関連で与えられるものだ。


・私は今の私を超えたものへと至る途上であるという感覚が、内的な満足につながるものといえる。


・仕事の中に求める移行の感覚は、未来のために現在を犠牲にするプレ的(前のめり)なものではなく、他者との関係の中で私が変容していくという現在的、同時的なものであろう。


・「ともに生きて在る」という感覚が生成されるとき、あるいはまた、仕事や遊びとの関係で自分をはかる、そういう軸のようなものが、世界の中で、そして私たちの間で生成しつつあると感じられるとき、ときめくと表現されるのであろう。


・勤労への感謝や恵みという言葉がリアリティを持たない現代。


・就職を考える時点で自分にしかできないことにこだわる人が多いが、会社に入れば、最初は誰にでもできる仕事しかさせてもらえない。それを工夫しながら丹念に繰り返しているうちに、自分流のやり方を見つけ、周囲からも認められ、そうして初めて他の人にはできない仕事が生まれる。


・才能や素質は自分自体ではなく自分の特質であり、自分が属しているタイプでしかないため、私がそれをしていることの意味にはならない。また、やればやるだけ仕事は他人のおかげということが思い知らされるから、自己実現という目標の達成は難しい。


・限界に向き合うことが、働いているという実感に満たされることにつながる。もう一つ身体があればとか、他人の力を借りないと何もできないとか、そういった限界を感じながら格闘することに意味がある。


・テレオロジカルな思考の外に出て有意味性にこだわることも、意味への病として取り憑かれてしまうだけではないだろうか。生産性の論理の問題に代わって再浮上するだけではないか。


・生産の鏡から離れなければならないが、一方で、ただただ身体を動かすだとか、何もせずに横にいるだけの仕事だとか、意味の彼方へ赴くことを要求するわけではない。意味の病は根深い。


・英語やドイツ語で職業を表す言葉は、召喚や使命、天職、布教、伝道に由来する。これは自己実現や達成感とは対極にある考え方だが、意味への憑かれはここにもあり、他者による召喚という意味づけである。


・日本語における「責任」ではなく、「リスポンシビリティ」にみられる他者からのよびかけに応える、応じるという含意を意識したい。ボランティアも、責任ではないがリスポンシビリティが動機になったに違いない。


・勤めと務めをばらして考えることが必要。勤めは人生の半分と考え、務めを探ってみよう。


・他者の小さな声にキャナイヘルプユー?とすぐに応じることができる人。リスポンシビリティは、そのように地べたから立ち上がらないかぎりは、根無草になってしまう。


・時代ごとに、働くことの意味も語り直されていくだろう。希望には叶うか潰えるかだけでなく編み直すという選択肢があるように、務めについても編み直していけばよい。


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・生産性、生産の鏡にとらわれすぎず

・遊びの間を意識し

・目的至上主義にならず快楽マシンにもならず

・内的な自己実現にとらわれすぎず務めを模索し

・特定の誰かに対する特定の誰かとして

・他者の小さな声を感じ

・限界に向き合い

・未来のために現在を犠牲にするのではなく

・他者との関係のなかで自分が自分を超える途上である今に手応えを感じ

・ときめきを得る