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(読書メモ) TO HAVE OR TO BE?(邦題:生きるということ) - エーリッヒ・フロム(訳:佐野哲郎)

 

・「限りなき進歩という大いなる約束」、自然の支配、物質的豊かさ、最大多数の最大幸福、妨げるもののない個人の自由の約束、は産業時代が始まって以来、各世代の希望と信念を支えてきた。


・だれもが富と安楽とを達成すれば、その結果としてだれもが無制限に幸福となると考えられた。


・すべての欲求の無制限な満足は福利をもたらすものではなく、幸福に至る道でもなく、最大限の快楽への道ですらない。


・徹底的快楽主義。


・人生の目標は人間の全ての欲求の充足であるという理論は、十七世紀および十八世紀の哲学者によって、アリスティッポス以来初めてはっきりと表明された。それは「利益」が「魂の利益」を意味することをやめて物質的、金銭的利益をいみするようになったときに容易に生じるような概念であった。


・すべての愛や連帯の絆をも投げ捨て、自分のためにのみあることが、より少なくではなくより多く自分自身であることを意味する、と信じた時代であった。貴族が哲学も持たずに慣習としてきたことが、市民階級の慣習と理論とになったのである。

 

・限りない快楽の概念は、規律ある労働の理想に対する奇妙な矛盾を生み出すのであって、それは仕事に対する執念を倫理規範とひて受け入れながら、一日の残り時間と休暇の間は完全に怠けることを理想とする、という矛盾に類似している。


・「私は貪欲でなければならない、なぜならもし私の目標が持つことであるのなら、私が持てば持つほど私はあるのだから」。


・だれもがより多く持つことを望む限り、階級の形成があるに違いないし、階級闘争があるに違いない。


・貪欲と平和は互いに相いれないのである。


・自己中心主義、利己心、貪欲が存在しない社会は原始的であると考えられ、その住民は子供じみていると考えられた。


・私がここで言及しているのはラディカルヒューマニストとしての真のマルクスであって、ソビエト共産主義が描き出している俗悪な偽物ではない。


・生命への愛と死せるものへの愛との間の区別とともに、存在の最も重大な問題としての意味を持つこと、そして経験的、人類学的、精神分析的データは、持つこととあることは二つの基本的な存在様式であって、そのそれぞれの強さが個人の性格やいろいろな型の社会的性格の違いを決定する。


ゲーテは言わばテニソンと芭蕉の間にいる。彼にとっては、決定的瞬間において生命の力が単なる知的好奇心の力よりも強いのである。


・あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である。


・持つこととあることに対する重点の置き方に或る種の変化が生じたことは、過去二、三世紀のうちに西洋の諸言語における名詞の使用が多くなり、動詞の使用が少なくなったことに明らかである。


・「私は悩んでいます」と言わずに「私は問題を持っています」と言うことによって、主観的経験は排除される。隠された無意識の疎外を露呈している。


・多くの言語の発達において、「それは私にある」という構文がまずあって、のちに「私は持つ」という構文ができる。


・あることは、繋辞として、動詞の受動的な形として、存在することを意味するものとして、幾つかの異なった方法で用いられる。


・持つ存在様式においては、世界に対する私の関係は所有し、占有する関係であって、私が自分自身をも含むすべての人、すべての物を私の財産とすることを欲するという関係である。


・ある存在様式においては、私はあることの二つの形を確認しなければならない。一つはデュ・マルセの所説に例示されているように、持つことと対照をなすもので、生きていること、世界と真に結びついていることを意味する。あることのもう一つの形は見えることと対照をなすもので、バンヴェニスとの言うあることの語源に例示されているように、偽りの外観とは対照的に、人あるいは物の真の本性、真の現実に言及するものである。


・あることが変化を意味する、すなわちあることはなることであると言う考えは、西洋哲学の初期および最盛期において、二人の最大のそして最も非妥協的な代表者を持っている。ヘラクレイトスヘーゲルにおいてである。


・仏教思想の中には、物であれ自己であれ、いかなる持続的、永続的な実体の概念をも、容れる余地はない。過程以外には何も実在しない。


・余暇に関する限り、自動車、テレビ、旅行、セックスが今日の消費主義の主たる対象であり、私たちはそれを余暇活動と呼んでいるが、むしろ余暇不活動と呼んだほうがよいだろう。


・持つ様式の学生は、聞く言葉を思想あるいは全体的な理論の固定した幾つかの集合に変貌させ、それをたくわえる。学生と講義の内容とは互いに無縁のままであって、ただそれぞれの学生が、だれかほかの人の所説の集積の所有者となったというだけのことである。


・関心という言葉の本質的な意味は語根、すなわちラテン語のinter-esse、それの中にあるいは間にある、に含まれている。


・持つ様式の想起においては、結合はまったく機械的である。一つの言葉と次の言葉との結合が、その結合の頻度によって確立されるときのように。


・ある様式においては、想起することは能動的に言葉、観念、光景、絵画、音楽を思い出すこと、すなわち想起すべき単一のデータと、それが結びつくほかの多くのデータとを結びつけることである。


・写真が引き出す通常の反応は、「そうだ、彼だ」とか、「そうだ、ここは行ったことがある」とかである。写真はたいていの人にとって、疎外された記憶となるのである。


現代社会の人々が覚えなければならないデータの多さを考えると、或る分量の記録や情報をノートに託すことは避けられない。しかし覚えようとしなくなる傾向は、常識的な釣り合いをまったく超えて強まりつつある。物事を書き留めることが想起能力を弱めるということは、自分自身を省みることによって容易に、また最もよく観察することができる。


・会話において、持つ様式と対照的なのが、何の準備もせず支えなしで事態に臨む人である。自発的、生産的に反応する。自分についても、自分の持つ知識や地位についても、忘れてしまう。自我に妨げられることはない。持つ人物が持っているものに頼るのに対して、ある人物はあるという事実、生きているという事実、そして抑制を捨てて反応する勇気がありさえすれば何か新しいものが生まれるという事実に頼る。かくして会話は活気づき、商品の交換ではなくなる。


・小説はおそらく大抵の場合、持つ様式において読まれている。好奇心をそそられると、読者は筋を知りたくなる。彼らが結末を知ったとき、彼らはすべての物語を持つのである。しかし彼らは自分の知識を増してはいない。また小説の中の人物を理解することによって、人間性への洞察を深めたり、自分自身へについての知識を得たりしたわけでもない。本来は内的な参加とともに、すなわちある様式において読むことができるものである。


・哲学あるいは歴史を主題とする本においても同様である。持つ様式の読者は博物館の物知り案内人のようなものである。哲学者に問いかけること、話しかけることを、学ばない。当時新しかったことと、当時の常識であったために著者が採らざるをえなかった考え方とを区別することを、学ばない。


・知ることは真実を所有することを意味しない。それはたえず真実によりいっそう近づくためにうわべを突き抜け、批判的かつ能動的に努力することを意味する。ある様式における最高の知識は、より深く知ることである。持つ様式においては、それはより多くの知識を持つことである。


・ある様式での信念は、或る観念を信じることではなくて、一つの内的方向づけであり、態度である。何よりもまず偶像の否定であり、人が持つことのできる神々の否定である。神には名前があってはならないし、神のいかなる像も造ってはならない。


・実際には、愛するという行為のみが存在する。愛することは生産的能動性である。それは人物、木、絵、観念を尊重し、知り、反応し、確認し、享受することを意味する。それらは与えることを意味し、彼の生命力を増大することを意味する。それは自らを更新し、自らを増大する一つの過程である。


・求愛の最中には、どちらもまだ自信がなく、双方ともに生きていて、魅力的で、興味をそそり、美しくさえある。生きていることは、常に顔を美しくするからだ。結婚という行為によって、事態はしばしば根本的に変わり、互いに愛し合う代わりに、彼らは持っているもの、すなわち金、社会的地位、家庭、子供の、共同所有で満足する。


・現代の日曜日は娯楽の日であり、消費の日であり、自己から逃避する日である。世界的に調和と平和を守る日として、また人間の将来の先駆けとなる人間的な日として、シャバットを回復すべきときが来ているのではないかと問いたくなるのである。


エックハルト「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。


・何も欲することのない人物とはだれか。禁欲的な生活を選んだ人というのが、私たちの普通の応答だろう。しかしこれはエックハルトのいう意味ではないのであって、彼は何も欲しないことを懺悔の苦行や外面的な宗教的実践として理解する人々を、しかっている。彼はこのような概念に賛成する人々を、利己的な自我に執着する人々とみなす。


・人は神の意志を行うことすら欲してはならない。何も欲することのない人物とは、何ものにも貪欲でない人である。これがエックハルトの非執着の概念の本質である。


エックハルトが「人間は自らの知識を捨てなければならない」と言うとき、彼の意味するのは、人は自分の知っていることを忘れるべきということではなく、自分が知っているということを忘れるべきだということである。私たちは自分の知識を所有物として、そこに安心を見いだし、それがアイデンティティの感覚を与えるものとして見るべきでないということである。ある様式においては、知識は思考の洞察的能動性(確信を見いだすために立ち止まるよう誘うことは決してない)以外の何ものでもない。


・何も所有してはならず、何もしてはならないということを意味してはいない。それの意味するところは、自分が所有するもの、自分が持つものに、また神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはならない、ということである。


・ディートマー・ミートの主張においては、真の生産性の条件としての自由は自我を捨てること以外の何ものでもなく、それはパウロ的な意味での愛が、あらゆる自我の束縛から自由であるのと同様である、ということである。この意味での自由は、愛と生産的にあることとの条件である。


・日常生活で使う物、財産、儀礼、善行、知識、思想、それらはそれ自身として悪いわけではなく、悪くなるのである。すなわち私たちがそれらに執着するとき、それらが自由を損なう鎖となるとき、それらは私たちの自己実現を妨げるのである。


エックハルト「人々は何をなすべきかより、自分が何であるかを考えるべきである。かくしてなすべきことの数や種類でなく、善くあることを重点に心掛けよ。あなたの仕事のよって立つ基本を、むしろ重視せよ。」


・能動的に生きている人間は、「満たされるにつれて大きくなり、決して満ちることのない器」のようである。


エックハルトの倫理体系における至高の美徳は、生産的な内的能動性の状態であって、その前提はあらゆる形の自我の束縛と渇望を乗り越えることである。


・私的所有権は自然で普遍的な範疇のことであると考えられているが、人間の歴史全体、特に経済を人生の主たる関心事とはしない、ヨーロッパ以外の諸文化を考えると、それは実際には通則というよりは、むしろ例外なのである。


・自我は知識や熟練のような現実に持っている資質と、私たちが現実の核のまわりに築き上げる或る種の架空の資質(他人に抱いてほしいと思う自分のイメージ)との混合である。しかし、この架空の資質も含んだ自我が私たち各人の所有する物と感じられてしまい、この物がアイデンティティの感覚の基礎となるということである。


・刺激が受動性を与えるものであればあるほど、それの強さおよび種類を変えなければならない。それが能動性を与えられるものであればあるほど、その刺激は長く保たれ、強さと内容の変化ら必要でなくなる。


・若者たちは、何ものかからの自由から何ものかへの自由へと進歩してはいなかった。彼らのブルジョワ的な親のそれと同様に、彼らの標語は「新しいものは美しい!」であって、彼らは最も優れた精神が生み出した思想をも含めた、あらゆる伝統に対するほとんど恐怖症的ともいえる無関心ぶりを示すようになった。


・彼らは全てのものを自分で発見できると信じた。彼らの理想は再び幼児となることであって、ヘルベルト・マルクーゼのような著者たちがそれに好都合なイデオロギーを生み出した。彼らがまだ若くてこの陶酔感が持続する限りは幸福であったが、この時期を過ぎたときに残ったのは苦い失望であり、無感動な人間になって終わるのである。


・持つ存在様式の性質は、私有財産の性質に由来している。私が財産を取得すると、取得したものを守る無制限の権利を持つこととなり、他人を排除する。財産を生産的に活用することを求めはしない。私と私の持つものとの間に生きた関係はない。


・いかにして当人に気づかれることなく、或る人物の意志をくじくことができるか。しかし、教化、報酬、懲罰、適当なイデオロギーの入り組んだ過程によって、この課題は一般的に非常にうまく解決されるので、大抵の人々は自分は自らの意思に従っているのだと信じ、その意志自体が条件づけられ、操作されていることに気づかないのである。


・他人と同様にこれで十分ということを知らないので、財産を奪おうとするのである。持つ様式においては、幸福は他人に対する自己の優越性の中に、自己の力の中にある。ある様式ににおいては、それは愛すること、分かち合うこと、与えることをの中にある。


・他の何ものにも増して、財産の所有が不滅への渇望の実現を生み出すのであって、持つ方向づけがこれほど強力なのはそのためである。もし私の自己が私の持つものによって構成されているとすれば、持っているものが不朽であれば、私も不滅ということになる。


・肛門愛的性格。


フロイト「所有への支配的な方向づけは十全な成熟が達成される以前の時期に現れ、もし永続的になればそれは病的である」。


・持つことと消費することを抑えようとする試みそのものにおいて、その人物はやはり持つことと消費することにこだわっているのかもしれない。


・もしすべての人々の所有物が機能的で個人的であれば、誰かが他人よりいくらか余計に持っているかどうかが、社会問題を生むことはない。所有は本質的なものではないので、羨望する気持ちが生じないからである。各人の取り分が厳密に等しくなければならない、という意味での平等に専念する人々は、彼ら自身における持つ方向づけが強いだけである。自分が感じるであろう羨望から、自らを守っているのである。


・存在的な持つことは合理的な方向を持った衝動であって、それが求めるのは生命を保つことである。存在的に持つことはあることと衝突はしない。性格学的な持つことは、必然的に衝突する。


・ある様式にには、前提条件として、独立心、自由、批判的理性の存在がある。基本的な特徴は、能動的であるということであり、それは、自分の能力や才能を、そしてすべての人間に与えられている豊富な人間的天賦を、表現することを意味する。自分を新たにすること、成長すること、あふれ出ること、愛すること、孤立した自我の牢獄を超越すること、関心を持つこと、耳を傾けること、与えること、を意味する。


・安心感とアイデンティティとを見いだすために、持っているものにしがみついたり、それを抱いていたり、自我や所有物に執着したりしなくなる度合いに応じてのみ、ある様式は現れることができる。自己中心性と利己心を捨てることを要求する。自己を空虚にし、貧しくすることによってなすべきことである。


・能動性の現代的な意味は、能動性と単なる忙しさとを区別しない。


・疎外されない能動性においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。疎外されない能動性は、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程である。この疎外されない能動性を、生産的能動性と呼ぶ。これは、創造することを指してはいない。自分自身を深く意識している人物、あるいは一本の木をただ見るだけでなく本当に見る人物、あるいは詩を読んで詩人が言葉に表現した感情の動きを自己の内部に経験する人物の中で進行している過程、その経過は何も生産はしないが、大いに生産的でありうる。生産的能動性は、内的能動性の状態を表す。


スピノザ「もし貪欲な人物が金と所有物のことばかり考え、野心的な人物が名声のことばかり考えたとしても、人は彼らを精神異常とは考えず、不愉快に思うだけである。概して人は彼らを軽蔑する。しかし、実際には、貪欲や野心などは精神異常の形態なのである。普通、人はそれらを病気とは考えないけれども」。


現代社会においては持つ存在様式は人間性に根ざしているとされている。同じ考え方を表現するのが、人々は根本的に怠惰であり、受動的であり、物質的利益や飢えや罰の恐怖という刺激に駆り立てられなければ仕事もそれ以外のこともすることを望まない、という定説である。しかしこれは、社会的な取り決めが人間性の要求に従っていることを理由にして、その価値を証明しようとする願望の現れに他ならない。

 

・取得型社会では、大多数の人々は多くの財産を持つことができないが、それでも自分たちのわずかな所有物を大切にする。現在持っている物を保存し、わずかでも増やそうという願望にとりつかれている。おそらく最大の楽しみは、物を所有することよりも、生き物を所有することにあるだろう。

 

・それ自身は退屈であっても、生命力と天賦の才に恵まれた人物の実験に自分が参加しているのだと感じられれば、それは興味深い仕事となる。


・与える意志の現れは、心から愛する人々の中に見られる。


・少なくない人々が、豊かな家庭の中で彼らを取り巻いている贅沢な利己心に、我慢できないでいるのが見られる。実は彼らは欲しいものを何でも持っているわけではなく、自分の持たないものをほしがっているからである。


・他人との一体化を経験したいという人間の欲求は、人間の特徴である独特の存在条件に根ざしていて、人間行動を動機づける最も強いものの一つである。


・人間には両方の傾向が存在することを指摘するようである。一方は持つ(所有する)傾向であって、その強さの根拠は究極的には生存への欲求という生物学的要因にある。他方はある(分かち合い、与え、犠牲を払う)傾向であって、その強さの根拠は人間存在の独特な条件と、他人と一体になることによって孤立を克服しようとする生来の要求にある。すべての人間の中にこの二つの矛盾した努力が存在するので、社会構造、すなわち社会の価値と規範が、この二つのいずれが優位となるかを決定することになる。


・持つことによる安心感にもかかわらず、人々は新しいものへの理想を持つ人たち、新しい道を切り開き、前進する勇気を持つ人たちを賞賛する。


・用心深い、持つ人物は安心感を味わっているが、彼らは必然的にきわめて不安定である。彼らは自分が持っているもの、すなわち、金、威信、自我、つまり、自分の外にある何ものかに頼っている。


・もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう。間違った生き方の証人としての、挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在以外の何者でもない。持っているものを失うことがありうるので、必然的に、持っているもの。失うだろうと、たえず思いわずらう。泥棒を、経済的変動を、革命を、病気を、死を恐れ、愛を、自由を、成長を、変化を、未知のものを恐れる。防衛的になり、かたくなになり、疑い深くなり、孤独になり、より多くを持つ要求にかりたてられる。自分のことで頭がいっぱいである。


・持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する。理性の、愛の、芸術的、知的想像の力、すべての本質的な力は、表現される過程において成長する。費やされたものは失われないで、反対に、守られているものが失われる。


・西洋人にとっては、持つことと切り離して楽しみを経験することは、実際容易ではない。多くの、あるいはたいていの人々は、決まりきったやり方でしか山を見ようとはしない。山を見る代わりに、彼らはその名と高さを知りたがる。あるいは、登りたがるかもしれないがらそれもまた別な形での山の所有となりうる。しかし、真に山を見て楽しむことのできる人もある。


・音楽作品の鑑賞に関しても言えるだろう。愛する音楽を録音したものを買うことは、その作品を所有する行為となりうるのであって、おそらく美術を楽しむ人々の大多数も、実際はそれを消費している。しかし、少数の人々は、おそらく今でも真の喜びをもって、かつ何らかの持つ衝動もなしに、音楽や美術に反応しているのである。


・所有することを望まないで楽しむ例は、小さな子供に対する私たちの反応にも、容易に見ることができる。たいていの人々は子供を恐れていないので、自由に愛情をもって反応できると感じるからなのである。


・持つことを中心とする人物は、自分の好きな人物、あるいは賞賛する人物を持つことを望む。どちらの側も、相手をただ楽しむだけでは満足しない。持つことが支配する関係は、重苦しく、負担が大きく、葛藤と嫉妬に満ちている。もっと一般的に言えば、持つ存在様式の個人間の関係における基本的要素は、競争、敵意、恐れである。


・貪欲な人物は決して十分に持つことができないし、満足することもできない。空腹のような、肉体の生理による一定の飽和点を持つ生理的欲求とは対照的に、精神的貪欲は飽和点を持たない。


・国民間の恒久的な調和的関係の状態としての平和は、持つ構造にある構造が取って代わったときに初めて可能である。


・搾取の要求も可能性もなく、また貪欲な社会的性格もないところには、階級闘争はなかった。しかし、いかなる社会においても、たとえ最も豊かな社会においても、持つ様式が優位を占める場合には、必ず階級が生まれる。


・ある様式においては、私的に持つことにはほとんど情緒的な重要性はない。何かを楽しむために、あるいは使うためにも、それを所有する必要がないからである。これは争いを避けるだけでなく、楽しみを分かち合うという最も深遠な人間的幸福の一つの形態を創造する。分かち合う経験は、二人の個人の関係に生命を与え、またその生命を維持する。もちろんこのことが当てはまるのは、個人が真に愛し、あるいは賞賛する限りにおいてであり、またその度合いに応じてである。


・金持ちになったり、有名になったりするためには、個人は忙しいという意味で大いに能動的にならなければならないが、それは内なる誕生の意味においてではない。目的を達成したとき、彼らはわくわくし、強烈な満足をおぼえ、絶頂に達したと感じる。だが、いかなる絶頂なのか。おそらく興奮の、満足の、恍惚状態あるいは狂乱状態の絶頂だろう。しかし、彼らがこの状態に達したのは、人間的ではあるが、人間条件の本質的に妥当な解決をもたらさないゆえに病的な情熱に、かりたてられたためかもしれない。このような情熱は、人間のより大きな成長と力をもたらすものではなく、反対に人間に壊滅的な影響を与えるものである。


・徹底的快楽主義者の快楽、常に新しい貪欲の満足、現代社会の快楽は、さまざまな程度の興奮を生み出す。しかし、それらは喜びをもたらさない。


・快楽とわくわくする気分とは、絶頂に達したあとの悲しみをもたらす。器は成長していないからである。自己の内部では何も変化していないからである。「交わりのあとの動物は悲しい」という格言は、同じ現象を愛なきセックスに関連して表現している。


スピノザも、「喜びとは、人間がより小さな完成からより大きな完成へ、推移することである。」と言う。スピノザの所説を十全に理解することは、彼らの全思想体系の文脈の中に置いてみて初めて可能となる。堕落しないためには、私たちは人間性の典型に近づくように努力しなければならない。すなわち、最適に自由で、合理的で、能動的でなければならない。自己のなりうるものにならなければならない。


・喜びは、自分自身になるという目的に近づく過程において、私たちが経験するものなのである。


・二人とも裸であったが、「互いに恥ずかしいとは思わなかった」。もっと深いところでこの論述に含まれていると思う意味は、男と女は互いに総体として直面したが、恥ずかしいとは思わなかった、というより思うことができなかったのであって、それは、彼らが相手を他人として、切り離された個人としてではなく、一体として経験したからだ、ということである。


・おそらく最も意味深いデータは、人間の肉体の保存を目指す多くの儀礼や信仰に現れた、不滅への深く刻み込まれた欲求であろう。


・死ぬことの恐れをなくすことは、死の準備として始まってはならないのであって、持つ様式を減らし、ある様式を増やすためのたえざる努力のして始まらなければならない。スピノザが言うように、賢明な人は生について考え、死については考えない。


・ある様式は、今ここにのみ存在する。持つ様式はただ時の中にのみ、すなわち、過去、現在、未来の中に存在する。


・時を尊重することと、時に屈服することは別である。私たちはたいてい、仕事を組織化するように、余暇をも組織化する。あるいは、完全になまけることによって、時の専制君主に反抗する。時の要請にそむく以外には何もしないことによって、私たちは自由であるという幻想をいだくが、実際には時の牢獄から仮釈放されているにすぎないのである。


・社会の変革は、社会的性格の変革と相互に作用し合うこと、宗教的衝動は、男と女を動かして極端な社会的変革を達成するのに必要なエネルギーを寄与すること、それゆえ新しい社会は、人間の心の中に根本的な変革が起こったときに初めて生まれるということだ。


・政治的革命家が気づかないのは、新しいエリートは古いエリートと同じ性格によって動機づけられるので、革命が生んだ新しい社会の中に、古い社会の諸条件を再生させる傾向を持つだろうということ、そして革命の勝利は革命としての敗北となるだろうということである。


・反対には、第一に人間の本性が変わる必要があり、そののちに初めて真に人間的な社会を築くことができる、と主張する人々がいる。人類の歴史は、これも間違いであると証明している。純粋に精神的な変革は常に個人的な領域にとどまり、小さなオアシスに限定されてきたし、また、精神的な価値の説教とその反対の価値の実践とが結びついたときには、ほれはまったく無力であった。


・社会的性格は、いかなる人間の生来の(広い意味においての)宗教的な要求をも充足しなければならない。


・問題は宗教であるか否かではなく、いかなる種類の宗教であるか(人間の発達と、とくに人間的な力の開花とを促進する宗教であるか、それとも人間の成長を麻痺させる宗教であるか)である。


・或る特定の宗教が行動を動機づける力を持つ場合、その宗教は教義や信仰の総計ではない。それは個人の特定の性格構造に根差すものであり、またそれが集団の宗教であるかぎりは、社会的性格に根ざしている。かくして、宗教的態度は性格構造の一面とみなすことができる。というのは、私たちは私たちが献身するものであり、献身するものは、行動を動機づけるものであるからだ。


・データを考慮すると、人類の定義として、進化の途中で本能による決定の度合いが最低となり、脳の発達がさいこうとなったときに出現した霊長類である、と言うことができる。


・方向づけの枠組みが存在しない文化は見出されていない。これは個人においても同様である。自己の判断力の導くままに反応している、と主張する彼らが自己の哲学を当然のこととして考えているのは、ただそれが彼らにとって常識にすぎないからなのである。このような人物が総体として根本的に違った人生観に直面すると、それを常軌を逸しているとか、非合理的とか、子供じみていると判断し、一方自分はまったく論理的であると考える。


・すべての高等な宗教の経験的核心としての宗教的方向づけは、これらの宗教の発達の途上でほとんどがゆがめられてきた。


・実際、もしヨーロッパの歴史が十三世紀の精神で続いていたならば、それが科学的な知識と個人主義の精神を、ゆっくりと進化的に発達させていたならば、私たちは今では幸福な状態になっているかもしれない。


・例としては、平和のために役立つと言われる、現代のオリンピックを見守る人々の狂乱的ナショナリズムを考えればよい。オリンピックの人気そのものが、西洋の異教の象徴的表現である。オリンピックは異教の英雄、すなわち勝者、最も強い者、最も強く自己を主張する者をたたえる一方、ギリシアのオリンピックの模倣としての現代オリンピックを特徴づける、商売と宣伝のきたない混合を無視している。


・ここで単純な、無意識の定式ができる。「キリストは私たちの代わりに、愛することをすべてやってくださる。私たちはギリシアの英雄のやり方を続ければよい。それでも救われるのだ。なぜなら、キリストへの疎外された信仰は、キリストにならうことへの代用なのだから」。キリスト教信仰が、自分の強欲な態度の手軽な口実にもなることは、言うまでもない。


・市場的性格と名づけたのは、それが自分を商品として経験すること、そして自分の価値を使用価値としてではなく、交換価値として経験することに基づいているからである。生きている人間は、パーソナリティ市場における商品となる。


・人が専念するのは、彼もしくは彼女の人生や幸福ではなく、売れるようになることである。


・市場的な性格構造を持つ人々は、動くこと、最大の効率をもって物事を行うことのほかには、目的を持たない。なぜそんなに早く動かなければならないのか、なぜ物事は最大の効率をもって行わなければならないのか、と尋ねられたら、彼らはまともな答えを持たず、「より多くの製品を得るため」とか、「会社を大きくするため」などと、正当化するだろう。


・頭脳による操作的思考の至上権に伴って、情緒的生活は萎縮する。


・精神医学の用語でなら、市場的人物は統合失調質の性格と呼ぶことができるだろう。


・左派からの抗議は、時には有神論的な、時には非有神論的な立場から表現されたけれども、ラディカル・ヒューマニズムと呼ぶことができるだろう。社会主義者が信じたのは、経済的発達はとどめることができないこと、以前の社会秩序の形態に戻ることはできないこと、そして救済への唯一の道は、前進を続けて、人々を疎外から、機械への屈服から、非人間化の運命から解放する新しい社会を作ることにある、ということであった。


マルクスはマイモニデスと同様に、究極的な終末論的解決を、自明のこととはしない。人間と自然との不一致は残る。しかし、必要性の領域はできるかぎり人間の管理のもとに置かれる。「しかし、それはあくまで必要性の領域である」。目的は「かのそれ自身を目的とする人間的な力の発達であり、真の自由の領域」であって、「全世界は主を知ることにのみ専念するだろう」というマイモニデスの見解は、マルクスにとっては、「それ自身を目的とする人間的な力の発達」なのである。


マルクスが言っている持つ感覚とは、まさにエックハルトの言う自我の束縛と同じであり、物と自我への渇望にほかならない。マルクスが言及しているのは持つ存在様式であって、所有そのもの、疎外された私有財産そのものではない。


・ラディカル・ヒューマニストが共有する考え方や態度:p217


・アルベルト・シュヴァイツァーは、産業社会を特徴づけるものとして、自由の欠如だけでなく、過剰努力をも見いだす。人間的実質は発育不良となり、このような発育不良の親によって育てられるために、子供の人間的発達に必要な本質的要因が欠けることになる。「やがて成人した人物は、彼もまた過剰な仕事を強いられて、浅薄な気晴らしへの要求に負けることがますます多くなる……。絶対的な受動性、自分から注意をそらし、自分を忘れることが、彼にとっての肉体的な要求となる」。


・指摘しておかなければならないことは、シュヴァイツァーキリスト教形而上学的楽観主義とは対照的に、形而上学的には懐疑論者であった、という事実である。これが、人生は至高の存在によって与えられ、保証された意味を持たない、とする仏教思想に彼が惹かれた理由の一つである。「もし世界をあるがままに受け入れるなら、そこに人間および人類の目標や目的が意味をなすような全体的な意味があるとは、とても考えられない」。唯一の意味ある生き方は、世界の中の能動性である。一般的な能動性ではなく、同胞に与え、同胞を思いやる能動性である。


仏陀エックハルトマルクスシュヴァイツァーの思想には、顕著な類似がある。すなわち、持つ方向づけを放棄せよというラディカルな要請、完全な独立性の主張、形而上学的な懐疑論、神なき宗教性、思いやりと人間的連帯の精神による社会的能動性の要請。


精神分析の本質は、患者が自分の不幸の原因に気づくのを助けてやることである。


・実践と切り離された洞察は、結局、無効なのである。


・新しい人間(★★★)

1.十全にあるために、あらゆる持つ形態を進んで放棄しようとする意思。

2.安心感、アイデンティティの感覚、自信。それらの基礎は自分のある姿であり、結びつき、関心、愛、まわりの世界との連帯への要求であって、世界を持ち、所有し、支配し、ひいては自分の所有物の奴隷となろうとする欲求ではない。

3.自分の外のいかなる人間も物も、人生に意味を与えることはなく、このラディカルな独立と、物に執着しないことが、思いやりと分かち合いに専心する最も十全な能動性の条件になりうる、という事実の容認。

4.自分が今あるところに十全に存在すること。

5.貯蓄し、搾取することからでなく、与え、分かち合うことから来る喜び。

6.生命のあらゆる現れへの愛と尊敬。それは物や力や死せるものでなく、生命とその成長に関係するすべてのものが神聖である、という知識の中に見られる。

7.食欲、憎しみ、幻想をできるかぎり減らすように努めること。

8.偶像を崇拝することなく、幻想をいだくことなく生きること。それはすでに幻想を必要としない状態に達しているからである。

9.愛の能力を、批判的で感傷的でない思考の能力とともに、発達させること。

10.ナルシシズムを捨て、人間存在に内在する悲劇的限界を容認すること。

11.自己および同胞の十全の成長を、生の至高の目的とすること。

12.この目的に到達するためには、修養と現実の尊重が必要であることを知っていること。

13.さらに、いかなる成長も、それが構造の中で起こらなければ健全ではないことを知っていること。しかしまた、生の属性としての構造と、非-生の、死せるものの属性としての秩序との相違をも知っていること。

14.想像力を発達させること。それも耐えがたい環境からの逃避としてではなく、現実的可能性の予測として、耐えがたい環境を取り除く手段として。

15.他人をあざむかないこと、しかしまた他人からもあざむかれないこと。無邪気とは言えるかもしれないが、単純とは言えない。

16.自己を知っていること。自分が知っている自己だけでなく、自分の知らない自己をも。自分の知らないことについては、漠然とした知識しか持たないかもしれないが。

17.自分がすべての生命と一体であることを知り、その結果、自然を征服し、従え、搾取し、略奪し、破壊するという目標を捨て、むしろ自然を理解し、自然と協力するように努めること。

18.気ままではなく、自分自身になる可能性としての自由。貪欲な欲求のかたまりとしてではなく、いつ何どきでも成長と衰退、生と死との選択を迫られる微妙な均衡を保つ構造としての自由。

19.悪と破壊性とは、成長の失敗の必然的結果であることを知っていること。

20.これらすべての資質の完成に到達した人々は少数にすぎないことを知っているが、目的に到達する野心は持たない。そのような野心もまた貪欲の形態であり、持つ形態をであることを知っているから。

21.どこまで到達できるかは運命にゆだねて、常に成長する生の過程に幸福を見いだすこと。というのは、できるかぎり十全に生きることは、自分が何を達成するかあるいはしないか、という懸念が増す機会をほとんど与えないほどの満足感をもたらすからである。


・多くの人々がこう考えている。「どうしてできないことをしようと努力するのだ。それよりも、今進んでいる方向に向かえば、地図にある安全と幸福の土地へ行けると思って行動しようではないか」と。


・メシアの時代の人間的ユートピアが達成されうるとすれば、それは私たちが技術的ユートピアの実現のなめに費やしたのと同じだけの精力、知性、熱意を、人間的ユートピアの実現のために費やすときである。


・自然科学の至上権から新しい社会科学への変革が起こるかどうかは、次の一つの要因にかかっている。すなわち、いかに多くのすぐれた、学識のある、修養を積んだ、思いやりのある男女が、人間精神に対する新しい挑戦に惹きつけられるか、そしてまた、今後の目的は自然に対する支配ではなく、技術に対する支配であり、人類とは言わずとも西洋社会の生存を脅かしている非合理的な社会の力や慣習に対する支配であるという事実に、惹きつけられるかということだ。


マルクスレーニンに至る初期の社会主義者共産主義者は、社会主義あるいは共産主義社会の具体的な計画を持っていなかった。これが社会主義の大きな弱点であった。あることの基礎となる新しい社会形態が生まれるためには、多くの企画、モデル化、研究、実験によって、必要なことと可能なこととの間の隔たりへ橋を渡すことを始めなければならない。


・最初の決定的段階は、生産を正気の消費のための方向に向けることである。


・何が生命を促進し、何が生命を害するかを検討するためには、FDAの諸問題を解決するときとは比較にならないほど大規模な研究を深めなければならない。私たちが決定しなければならないのは、次のことである。どの要求が私たちの有機体に起源を発しているのか。どれが文化過程の結果なのか。どれが個人の成長の表現なのか。どれが産業によって個人に強制される合成品なのか。どれが能動化し、どれが受動化するのか。どれが病理に根ざし、どれが精神的健康に根ざしているのか。


・自由市場経済では消費者は自分の望みどおりのものを手に入れるから、選択的消費の必要はない、という論法は、消費者は自分のためになるものを望むのいう過程に基づいているが、この仮定はもちろんだれの目にも明らかに間違っている。この論法が明らかに無視している重要な事実は、消費者の願望は生産者によって作り出されるということである。


・消費者ストライキの大きな利点は、政府の動きを必要としないこと、それに反抗するのが困難であること、そして過半数の賛成を待つ必要がないことである。


・あることに基づく社会を達成するためには、すべての人々が自分の経済的な機能において、また市民として、能動的に参加しなければならない。かくして、持つ存在様式からの解放は、産業的・政治的参加民主主義の十全な実現によって、初めて可能となる。


・あることの社会の確立に成功するかどうかは、ほかの多くの方策にもかかっている。

1.産業的・政治的広告においては、あらゆる洗脳的方法な禁止されなければならない。

2.豊かな国民と貧しい国民との間の隔たりを埋めなければならない。

3.今日の資本主義社会と共産主義社会の不幸の多くは、年間保障所得の導入によってなくなるだろう。

4.女性は家父長制支配から解放されなければならない。

5.最高文化会議を設立して、政府、政治家、市民に対して、知識を必要とするあらゆる問題に関する助言を与えることを、その職務とすべきである。

6.効果的な情報を効果的に広める体制も、確立しなければならない。

7.科学的研究は、産業面および防衛面での応用から切り離されなければならない。

8.これまでのページで行った提案のすべては、実現がたいそう困難となるだろうが、新しい社会のもう一つの必要条件を加えるに及んで、私たちの困難はほとんど克服しがたいものとなる。それは原子兵器の廃棄である。


・今日の社会の救済の見込みを、生命の観点からでなく賭けや商売の観点から判断するのは、商業社会の精神の特徴なのである。実に浅はかなことだが、今流行しているテクノクラティック的な見解では、仕事や遊びにあくせくしたり、何も感じなくなったりしても、それは決して重大な間違いではなく、もし間違っているとしても、結局のところテクノクラティック的ファシズムはたぶんそう悪いものではないだろうと考えられている。しかし、これは希望的観測である。テクノクラティック的ファシズムは、必然的に破局をもたらすにちがいない。


・私たちを或る程度勇気づける要因が幾つかある。その第一は、メサロヴィッチとペステル、ポールとアン・エールリッヒらの述べた真理を認める人々の数が、今や増えつつあることである。第二の有望な微侯は、私たちの現在の社会体制に対する不満の現れが増大しつつあることである。


・私たちの唯一の希望は、新しい理想の魅力による励ましにある。ユートピアンな目的のほうが、今日の指導者たちの現実主義よりも、現実的なのである。新しい社会と新しい人間の実現は、次の諸条件が満たされたとき、初めて可能となる。利益、力、知性の古い動機づけが、あること、分かち合うこと、理解することの新しい動機づけに取って代わられること。市場的性格が生産的な愛する性格に取って代わられること。サイバネティックス宗教が、新しいラディカル・ヒューマニズム精神に取って代わられること。


・有神論的宗教に真に根を下ろしていない人々にとっての決定的な問題は、宗派もなく、教義も制度もないヒューマニズム的宗教性、すなわち仏陀からマルクスに至る非有神論的な宗教性の運動によって、長年にわたって用意されてきた宗教性への改宗である。


・新しい総合、すなわち中世後期の世界の精神的核心と、ルネサンス以来の合理的思考と科学の発達との総合が、大混乱に代わる唯一の選択である。この総合はあることの都なのである。