SHUMAMB_CLTR

毎日書いている日記の一部を公開している。

ザツダン #01871

 

メインストリーム外では久しく見ていなかった"音楽で一つになりたいんだ"系の言説(意見表明?)を数日前に見つけ、近頃はあまり意識することのなかった想いがまた頭の中を再循環した。ぐるぐると。

 

Twitterへ音楽作品を"シェア"してばかりいるとよくわからなくなるけれど、それは習慣になってしまっただけであることに、改めて気づく。昔々、色んな方から知らないことを教えていただけることがどうにも有り難く、そのお返しになんてならないことはわかっているけれど「自分からも情報を提供するんだ!」と意気込んだところから習慣になっていった、どこまでも不器用なコミュニケーションの名残りだ。

 

本当は、一人で聴いていても十分に満ち足りている。ごく個人的には、やはり好きな作品を聴いて"成っていく感覚"への興味が心の中心にある。例え誰とも共有できない状態になろうとも、間違いなく聴き続ける。作品に向き合うことへの関心は絶えない。

 

また、聴くことが好きであるという想いを持ちつつも、"音楽"という言葉を使うことには今は少し抵抗がある。「音楽が好きです!」とは実は言いづらい。"音楽"と聞くと、コミュニケーションや意思の統一、団結、ひいては戦いまでをも連想してしまうからだ。書籍や文章を少し読んだのみであり、知らない多様な歴史があるであろう中、何とも断言はできないけれど、やはりそういったイメージは拭えず。"分かち合う"は幸せにつながると考えているが、"コミュニケーション"となると少し考え始めてしまい、"団結"までいくと自分の顔が険しくなっているのがはっきりとわかる。

 

思い返せば、中学二年生の時にサマソニに行って感じた"みんなで手を挙げてノッて一つになること"への違和感から始まっていた。高校生になってバンドを始めてからは変拍子ポリリズムに傾倒し、大学生になってからは"エモさ"に対しても違和感を覚え始め、それからは聴く音楽が徐々にスライドしていき、働き始めて数年経ってバンドも辞めた。"エモさ"についての考えは、以前書いた「趣味との付き合い方の話」の通り。扇動性のある音楽は薬物と同じだから常用すると不健康になってしまうし下手な付き合い方をすると趣味ではなく中毒になってしまうよねという趣旨。そういった音楽そのものを全否定する内容ではない。

 

話を戻すと、上述の通り、私は多くの人が望む音楽との関わり方や音楽そのものには興味がないのだろうと感じていて。つい最近も、「音楽はいいな。」とか「音楽、最高。」なんてTwitterに書いたけれど、(誰も気にしていないであろう中、)やはり後からもやもやが募ってしまって。自分自身はどういった作品を好ましく感じるのかという点は、作る側の想いや狙い、更にはアカデミックな観点からも分析し長々と書かなければならないだろうから今は諦めるけれど、本当は、受動的な感動を生まない、聴き手の能動性を引き出してくれる、そういった"違和感"のような作品("違和感"という言葉は、ここでは非常にポジティブな表現として使っている。)を体験および経験することが好きなだけなのに、ということだ。そういった想いが心にあるにもかかわらず"音楽"と広く表現してしまうのは、他人のことのみならず自分さえも騙すことになるから良くないと感じた。

 

これまでの話が「結局はお前の好みだろう!」という類の話でないことは、この短く拙い文章であっても多くの方がわかってくださることと思う。好みの話はまた別にある。

 

今後、気持ちや意見を発信するときには、もう少し厳密に言葉の意味を定義するようにしていきたい。今の世の中においては音楽の存在を有り難く感じているけれど、本来はある種の音楽が生まれない世界のほうが平和であると信じている者として。

 

あれ、何が言いたかったんだっけ。ぐるぐる巡って整理できていないだけのことはある。今日は以上。

 

(聴くことは、本当に楽しい体験だね!)